店に通っていた女性が亡くなった。
 このことは骨董店の店主である千景の耳に、秋頃ようやく伝わった。
「××さん、まだお若いのに」
 千景は残念そうに呟くが、それは心よりの悲しみというよりも「客をひとり失った」という喪失感に紐付いた吐露である。千景と彼女の関係は、所詮その程度なので。

 訃報を教えてくれた者は、店の常連客のひとりである愛書家の男。名は討代。彼は”彼女”を連れて、たびたびこの店を訪れた。
 この骨董店には調度品の他に『古本』も結構な数が置いてあり『インテリア用品』として扱われていた。討代はインテリア用の書籍を、正しく「読む用」として購入する取り戻す客だった。
 千景にとって、討代も”彼女”と同様「客と店主」という間柄に過ぎなかったが、その偏執的な購入理由の関係で千景が彼の名字を覚えるくらいの関係を構築していた。

「ええ、まだ20の半ばでした」
 ”彼女”について討代は淡々と告げるので、千景は肩透かしを食らった気分だ。なんせふたりを恋人同士か、あるいはそれに近い関係だと思い込んでいたので。
『こんな埃だらけのお店、デエトには向かないでしょう』
 そうからかった千景に対し女性は照れた様子を見せ、当の討代は「そういう用事ではありませんので」と恐縮していたことが思い出される。片思いだったのかもしれない。

 ”彼女”の不幸を千景に伝えた討代は、今度こそ物憂げな顔で本来の用件を告げる。
「都合がつきましたら、彼女の墓参りに行きませんか」
 はて、墓参りに行くほど深い付き合いは千景と”彼女”の間には無い。しかし骨董店は閑古鳥が鳴いていて、千景は暇を持て余していた。彼は骨董店の店番を父と交代で行う取り決めをしていて、つまり今日の開店時間の決定権は自分にあると結論づける。
「今から行きたいと言えば、君は案内してくれるのかい?」
 討代はその言葉を待っているようだった。店の暖簾をくぐった時から暗い色を湛えていた目が一瞬だけ輝きを取り戻す。スーツの男がまるで犬のように思え、千景はどうしようもなく愉快に思った。
「自分の車があるので、それで行きましょう」
 車で来ているならついでに何か買っていかないかい、外国の本を仕入れたんだと千景が続けるが、討代は「また今度」と柔らかく断った。ただの本じゃなくて曰く付きなんだけどなぁと続ける千景だったが、討代は「また今度」と頑なだ。セールストークは失敗に終わる。

 千景は厳重に店の戸締まりをした。この骨董店はその実『曰くつき』の品を多く取り扱っているので、鍵を閉めるだけでは不十分だ。シャッターを下ろして地面との境い目に札を貼る。「本日休業」の立て札でそれを隠すと、千景は討代について車に乗り込んだ。

 紅葉が目を焼く大通り。千景は助手席で鼻歌を歌いながら外を眺める。開けた窓からは冷たい風。和装姿の千景は羽織の紐を締めなおした。防寒はバッチリ、と千景は余裕を持っていたが運転席の討代は「くちゅん」と小さいくしゃみをひとつ。
「おやおやおや、ずいぶんとカワイイくしゃみを」
「聞き流してくださいよ……」
 照れたような討代の声。からかい甲斐がある、と千景は笑った。かわいそうに思えたので車の窓を閉める。実は車外の排気ガスが気になってきたことの方が理由としては大きいが。
「そうだ。掃除道具は持っていなくてもいいのだろうか?」
「必要ありません」
 返事が妙に早い。なるほど確かに親族ではないし、墓の掃除までは引き受けなくてもいいだろうと千景は声に出して討代に問う。討代は生返事をした。彼は道路だけを眺めている。
「花があれば十分だろうか? どうせ霊園の近くに売っているだろう。寄ってくれるかい?」
「……ええ」
 ずいぶんと溜めた返事を討代は返した。

 立ち並ぶ街路樹通りを抜けて小道へ入る。こちらはすっかり人通りが少ない。平日昼間だからか、もとより都会から離れているため交通量がそう多くないということもあるだろうが。それにしては人が居ない。一瞬で通り過ぎた速度標識は、桁数が多すぎて把握できなかった。
「近道ですよ。こっちは車も通らないので楽なんです」
「そうかい、こんな道があったんだねぇ」
 高架下に沿ったこの道は季節感も感じられない。不満に思っていると足元にイチョウの葉を見つけた。窓を開けた時に入ったのだろうか。千景は懐から文庫本を取り出すと、栞代わりに葉を挟んだ。なかなか風流だと思いひとりでニヤつく。

「誰の本ですか?」
 討代が横目で問う。千景が知る『討代』についての数少ない情報は、彼が愛書家Bibliophiliaであることと、古い本棚を買ったこと、そして隣の市に住んでいることぐらいだ。下の名前は配送の手続きで聞いたがぱっとは思い出せない。その程度の付き合いなのだが「やはり本に食いついたか」とおかしく思い、ニヤつく口元がより一層顕著になってしまった。

「なんですか、そのニヤニヤ笑いは。まさかご自分で出された本とか」
「いやいや違うね、これは僕の知り合いが出した本さ」
「作家さんなのですか?」
「ああ、いや違うんだ、個人で出したものらしい。最近は、その手の会社に頼めば本がつくれるらしいじゃないか。いい時代になったものだ」
「千景さんは本を出さないのですか?」
「僕にものを書く趣味は無いんだな」
「そうですか。行くたびに暇そうに店番をしているので……」
「君はなかなかに辛辣だねぇ。客が少ない時に決まって君が来るんだよ。土日はもっと繁盛しているとも」
「そうは言いますが、お店のラインナップ、先月から変動ないようでしたが」
「おやおや、よく見ているじゃないか」
 君にウソは付けないなぁと千景は笑った。いつの間にか車は赤信号で停車している。対向車線に車の影も、横断歩道に渡る子供もいないが、討代という男は律儀に車を止めていた。

「その本は面白いですか?」
 本に対する食いつきが思った以上だ、と千景は感心を覚える。なんだったら彼にこの本を売ってやってもいいとすら思った。
「話は面白くないが、本は面白いよ」
「と、言いますと?」
「装丁とやらにこだわったらしい。ほら、この表紙を見たまえ」
「運転中です」
「赤信号じゃあないか?」
 タイミングよく時差式信号が青に変わった。討代は得意げにアクセルを踏む。千景は後ろに流している前髪を弄った。観念のジェスチャーでもある。
「であればこの僕が口頭で説明してあげよう。作者いわく『表紙だけ』を別につくった。手漉き和紙のひとつひとつに手書きで通し番号。手作り感あふれるが、本分はちゃんとした印刷だからしっかりした本に見える。つまりこの通し番号のおかげで、中古に持ち込んだらその犯人がわかってしまうと言っていた。肝心のお話は、後味の悪い悲恋なんだがねぇ」
 自分で説明して千景は気づく。やはりこの本は他人に売ってはいけない、なんせ足がつく。できの悪いミステリーに巻き込まれている気分になった。
「……。」
 そして千景の意気揚々とした語りに反して、討代の反応は悪い。そんなにつまらない話だったかと、視線を運転手によこせば討代の顔色は青くなっていた。
「おや車酔いかい、旦那さん」
「いえ、そうじゃないんです。千景さん、あなたに超能力はありますか?」
「どうした、車酔いじゃなくてアルコールに酔っているのかい。飲酒運転は罪だよ君」
「酒は苦手なもので……あの香りが」
「そうかい、車酔いなら窓を開けようか? 秋だから冷えるが、酔いには冷たい空気がちょうどいい。しかし運転手が情けないものだな!」
「いえ。この辺りでは開けない方が良いです」
「なぜだい?」

 曲がり角で唐突に視界が開けた。そこには崩壊した施設があった。
 ふたりを乗せた車は一瞬にして非現実に踏み込んでいく。
 千景は思わずフロントガラスに顔を近づけた。張り巡らされたテープ、転がる何かの破片、かつては建築物だっただろうが今は何にも成らない焼け焦げた壁。昔見た戦争映画を思い出す。燃え落ちた大学がこのような見た目をしていたと思う。
「なんだいここは、爆弾でも落ちたのかい」
「爆弾なんて。戦争じゃあないですから」
「では火事かな……工場の爆発とかは聞いたことがあるが、まさかこんな近場で」
「『祟り』ですよ」
「たたり」
 非現実に非現実を重ねてくる討代の話に、思わず千景は間抜けな声をあげてしまう。ガラス窓の向こう、崩壊した土地を超えて大きな雲を見た。女性のシルエットのようだとぼんやり思ったがすぐに形は崩れてしまう。
「ニュース、確認されていないんですか?」
「いや近頃は搬入が多くてねぇ、そんな暇も無かったんだよ」
「それならそれで問題ないと思います。あらゆる報道では、ガス爆発としか説明されていませんでしたので」
「そ、そうかい。ここは通っても平気なのかい? 祟りって、ハハ、祟りって」
 非現実が過ぎて思わず笑ってしまうが、討代はあくまで真面目を崩さず答えた。
「安全ですよ。ここは祟りが起きただけで、祟られている土地というワケではないので」
 どういうことかとしばし考える千景だったが、討代からはそれっきりこの場に話題をもたらそうとしなかった。両者黙り込んだまま、車は崩壊現場の道沿いを走る。確かにこんな現場の近くを好んで通る車もいないだろう、人通りの少ない道の実態を知ってしまった。

 速度60km/hを保ったまま討代の車は焼け焦げた土地から遠ざかっていく。やがて山間の道に入った。目に飛び込む色彩は茶色一色だ。秋が深い。沈黙が続くのは気まずいと思い、千景は新たな話題を提案した。
「亡くなった”彼女”だが、どういう人だったんだい。僕が知るのは、店にいる彼女だけなんだ」
 故人を偲ぶには思い出話をするのが一番だと千景は考える。そして何分、千景には”彼女”との思い出が絶望的に少ない。”彼女”の人生において千景はほとんど部外者だ。
「いい仲じゃなかったのかい?」
 ひやかす気持ちもあってそう尋ねるが、討代の返答はそっけなかった。
「自分はそんなつもりはありませんでした。貴方のお店にも、彼女にせがまれたので連れて行った……というところです」
「その割には君はなかなか買ってくれない。彼女の方が頻繁に買ってくれたよ。まあ、こぶりのものが中心だから総額は君の方がつぎ込んでくれている」
「彼女は何を買っていましたっけ」
 覚えていないなぁと討代は告げる。本当に彼女に”興味”がなかったのか、それとも本命書籍の物色に熱中していたためか。

「小さいオブジェとか花瓶に丁度よさそうなツボとか。平和的な響きだろう? だがどれもカルト教団の倉庫から押収したものらしいよ。神様をかたどったものとか、なんとか。こっちは知らない神様だけどねぇ。八百万の神の国にはまあいろいろ居なさる。ああ、彼女、家具には興味がなかったようだね。持ち帰れるサイズのものばかりだから配送も利用しなかった。ああでも、いつだったかな、ひとりで来店した時に、黒壇の本棚を眺めていたよ。こちらもセールストークを頑張ったけどね、彼女はとうとう首を縦に振らなかった」

「黒壇の本棚というと……」
「そう、君が買ってくれたあれだよ」
「ああ、だから彼女、『運命』なんて言っていたのか」
 討代の表情は暗い。購入時に討代が聞かなかった本棚の『曰く』を嬉々として話そうとした千景だったが、続けられた言葉に口をつぐむしかなかった。

「自分と彼女は運命なんかじゃないというのに」

 車外では茶に朽ちた葉が風を象る。相変わらず、対向車線にすら車が通らない。静かなドライブだ。
「……あの人は」
 討代がゆっくりと口を開く。
「知り合いの紹介で出会ったひとでして。どこかの会社の事務をしている、ということぐらいしか自分も知りません」
「そこまで深い知り合いではなかったというわけかい」
「知ろうとしなかった、が正しいでしょうか。最初は古本の売り買いだったので。たまにうちに来て、お茶をして、本の話をして」
 そう語る討代はわずかに微笑んでいた。千景は見たこともない討代の家、本に囲まれてお茶をする一組の男女を思い浮かべる。永遠に見ることはない、妄想に近い状景だ。
「妹のような人だなと、自分はそう思っていたんですよ」
 そんな年齢差だろうと千景は納得する。他人の失恋話を聞くのは千景の好むところだが、それが亡き人の話となるといささか感情の置き所を迷ってしまう。

「……僕は骨董店で店主代理をしている。本当の店主は僕の父で、いずれは僕があの店を継ぐ予定だ」
「え、なんですか急に」
「いや僕が死んだ時に語られる情報が少ないのは厭だなぁと思ってね」
 結局、全力で茶化す方向に話を持っていく。千景は湿っぽいのが苦手な性質だ。
「骨董店で働いているなんてとうに知っています。まだ店主じゃなかったのは、さすがに知らなかったですが。あの態度でただの店員ですか」
 討代の表情が少し緩んだのを見て、この調子だと千景は考える。
「所帯を持ったら継がせてやるの一点張りでね。30も半ばになると親は流石に焦るようだ。僕の同級生は子持ちが多いからな」
「肝心の千景さんがそのようでは、お父さんの気苦労が予想できますね」
「討代さんはご職業は何を?」
「身辺警護をしています。ボディガードと言った方が分かりやすいですかね」
「ほうほう、それじゃあ何かあった時に僕を守ってくれたまえよ」
「契約先があるので……」
「使えないな。しかし、ボディガードなんて体育会系の男も本を読むんだねぇ」
「偏見ですね……自分は昔から好きなんです。あと、仕事で関わった人からも本をお譲りしていただけることがあって」
 金持ちは本持ってそうだ、と千景は店に『観賞用の本』を持ち込む老人たちを思い浮かべた。誰も彼もの顔にもやがかかり、仔細は思い出せない。
「後ろにある本も」
 そう促されて千景は後部座席を覗き込んだ。どれもこれも違う言語で書かれた本で、千景には内容の判断がつかない。
「車内にも積読かい」
「積んでいるんじゃあないですよ、お店に行く途中で寄ったので。手に入れたてです」
「そうかい、君は本がホントに好きなんだねぇ」
「ええ、大好きです。自分は本を読むのと集めるのが好きですから。貴方の仕入れにも期待しているんですよ」
 さり気なく混ぜた冗談には気づかれず。討代は熱を帯びた口調で語る。車の速度がわずかに上がった。車は山の中をずっと走っていて、直線の道だというのに先が視認できない。木漏れ日がボンネットの上で踊る。

「悪いけどうちの店は『インテリア』として本を売っている。古本屋じゃ値がつかない、つまりは読めないものがほとんどだ。インクが滲んでいたり、個人の出した本だったり、読めもしない言語で書かれた本だったりね」
「そういうのを解読していくのも楽しいんです。この間、貴方の店で買った本は大当たりでした。アクアディンゲンという魔導書だったんですよ」
「まどうしょ、ねぇ」
 千景は自分の耳をトントンと叩いた。何か引っかかる言葉を聞いた気がする。
「君はずいぶんと変わった趣味をお持ちのようだ。まあ、買ってくれるのは、店主代理としては助かるが」
 しかしもっと健康的な趣味を見つけたまえ、と千景はうすら笑った。本を読むのはいいことなんじゃないですか、と討代は前を向いたまま話す。そんな子供に言い聞かせるようなことを、と千景は考えたが、なるほどこの真面目な客は、ずっと誰かの教えを守ることを期待されて生きていたのではないかと考えなおした。

「そういえば」
 千景は、今まで無意識に認識しないようにしていた事象に思い至ってしまう。それはちょうど陽が完全に雲に隠れてしまった時であった。
「彼女の死因を聞いても大丈夫だろうか」
「自殺だと言われています」
「おやまあ」
 想定外の回答で、千景は笑みを引っ込めた。ふたりは揃って表情が暗くなる。千景に至っては、この道中でようやく真面目な顔になったといっても過言ではないだろう。
「討代くん、ひょっとして僕は君にずっと酷いことを言っていたのではないかな」
「どういうことでしょうか?」
「僕は、彼女が君に懸想していた前提でからかっていた。ずっとそれを蒸し返すようなことを言って」
「お気遣いいただきありがとうございます、千景さん」
 討代は小さく微笑んだ。目線は暗がりの先を見据えたまま。
「大丈夫です。彼女はひょっとしたら自分を好いていたのかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。彼女の口から想いを伝えられたことはありませんので。伝わっていない想いは、無いと同じか、あるいはこちらの下衆な憶測に過ぎません」
 無礼を許されて千景は気が緩んだ。そしてふとバックミラーに目を向ける。
「やあ、久しぶりに人を見た。しかしあれはパトカーだ。制限速度は守っていると思うんだが」
 タイミングよく道路標識が通り過ぎる。小数点まで書かれていたので、四捨五入をしている間に通過してしまう。枯れ葉のふぶきを掻い潜り、後続のパトカー、その運転席から身を乗り出して警官が何かを叫んでいる。

「……千景さん、シートベルトは大丈夫でしょうか」
「しめないと怒られてしまうだろう、お巡りさんに。こう見えて道路交通法は遵守するタイプなんだよ僕は」
「では、とばしますのでお気をつけください」
「へ?」
 討代は勢いよくアクセルを踏み一気に車の速度をあげた。車内が大きく揺れる。討代は険しい顔で、千景は突然の展開に引きつった顔だ。後部座席で古本がガタガタ泣いている。サイレンの音が追いかけてくる。
「飛ばしすぎじゃあないか、なぁ!? ここは高速道路じゃないぞ! 君はアレか、制限速度を気にしないタイプか!? 免停になっても知らないぞ!?」
 曲がりくねった道の中、討代はハンドルをきる。本や荷物が車内で踊る。シートベルトのおかげでふたりは無事だが、千景の懐からこぼれ落ちた文庫本はどこかにいってしまった。
「あの人に捕まるのは都合が悪いんです!」
「知り合いかい!?」
「祟りの現場に近づくなって言われてるんです」
「じゃあどうしてあの道を!?」
「貴方に見せたかったんです、祟りの被害を!」
「だからってこんな飛ばしたら」
「身辺警護にはつきものなので!」
「そんな映画みたいな!?」

 喚いている間に、車は山を抜けて大通りに出た。対向車線の車がクラクションを鳴らす。急に車が増えたように千景は思った。湧いて出たような感覚、いや、今まで非日常にいたのは自分たちの方なのだ。千景は冷や汗を拭った。討代は落ち着いて渋滞に車を紛れ込ませる。サイレンの音はいつのまにか消えている。
「まいたということか……しかし絶対にナンバープレートの番号は控えられていると思うぞ。何かあったら僕を巻き込まずに対処したまえよ」
 信号待ちだ。どの信号も鮮やかな赤色。横断歩道の代わりに歩道橋が空を割っている。
「善処しますよ」
 討代は大きく息を吐いた。任せていいものかと千景は不安を募らせていく。
「たかが墓参りでどうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだが」
「本当ですよ、困りますよ~」
 返答をしたのは、討代ではなかった。フロントガラスを黒い手がノックしている。脳の認識が遅れて追いついた。ボンネットの上に警官が乗って。いつの間に? 振り切ったはずなのに。普通じゃない。千景はヒ、と小さく声を漏らした。逃げられないという言葉がちらつく。

「運転手さん、あそこは一般人は近づかせないようにしているんですよ~」
 ガラス越しなのにクリアに聞こえる声。その口調は、千景によく難癖をつける地元の警官に似た極端なタメ口。言い返せと千景は討代に目で訴えたが、当の討代は黙り込んだままだ。
「であれば『立入禁止』の立て看板が必要だったんじゃあないかい」
 千景はフォローを入れることにする。自分でも己の顔がひきつっていると分かっていた。そういえば速度違反ではなく、あの場所に入ったことを咎めるんだなと疑問に思った。
「あったはずなんだけどね~、弾き飛ばしていない?」
「そんな荒い運転をするような男じゃありませんよ」
「いやスゴい山道ドライブだったね~」
「あーあ」
 弁明しようもない、と千景は大げさにリアクションをとった。そういえば普通に会話をしているが、警官がボンネットに乗っている状況はおかしいだろうと千景は己の頬を叩く。現在進行系で狐に化かされているような気分だ。周りは不思議に思わないものかと目線だけで信号待ちの車を見たが、隣も前の車もガラスの色が黒かったため中の様子は伺えなかった。
「今からどこへ行かれますかね~」
 警官は険しい顔をして尋ねる。その目は三日月のような形だ。
「彼女の墓参りです」
 ようやく討代が口を開いた。
「じゃあ、本はうまく片付けられたのかぁ~……」
「はい」
 ふたりの理由を知ったようなやりとりに、千景はだんだん不満を覚えはじめた。自分は世界から切り離されたような気持ちになっているというのに、討代は平然としってそれに接している。不自然な逆光を受けて、運転席の討代の顔が千景には見えない。フロントガラスに目を向けると、警官は先ほどの険しい顔一変、笑っていた。千景を見て笑っている。
「この件は不問にしよう。祟りはもう起きないということで、報告しておきますね~」

 ……信号が青に代わる。紅葉が雨のように降ってきた。討代は黙って車を発進させる。警察官は消えていた。白昼夢でも見ていたような気分だ。ひょっとしたらドライブに疲れて自分は寝ているのかもしれないと千景は己の意識を疑い始める。
「討代くん、先ほどの人は?」
「祟りを起こした人です。さっき通った、あの現場で」
「ええ? そうか、なるほど、つまりは警察官があの惨事を引き起こしたと」
「千景さんには先ほどの人が警察官に見えたのですか?」
「……そういう冗談は夏にやるのがふさわしいよ。幸いにして僕は与太話を好む性格だ。でも他の人にしちゃあいけないよ、変な人だと思われてしまうからね」
 老婆心から告げた言葉は、かつて自分が祖母から言い聞かされた内容をそのまま写したような物言いだ。
「”彼女”ならそういう話を好むのかもしれないが。いや、好むだろうな。なんせうちの店の、曰くつきの品の与太話を喜んで聞くような女性だった」
「自分は巻き込まれただけなんですよ、最初から最後まで。きっかけは貴方もつくった……」
 討代はもう千景を見ない。その目はアスファルトの道だけを。とまれ、とまるな、スクールゾーン。書かれた文字が歪んで瞳に映り込む。

「貴方、売ったでしょう、オブジェを。そしてさっきの人はカルト教団を追っている方らしいです。悪い物が拡散するのを防いだそうですが。ただ本の記述を信じなかったために、辺り一帯が焼け野原になったそうです」
「分からない。まるで分からない。何をやったんだ」
「処分です。本を燃やしたんです」
「本を?」
 思わず視線を後部座席に向けるが、そこに本は一冊も無かった。逃げる途中でごった返しの騒動になってそれっきりだ。
「『魔術書』です。彼女がつくった魔術書を処分しようとしたんです」
 まるでそれが日常のことのように云う。道は渋滞。陽の光は雲で遮られている。シートベルトがギシリと音をたてた。運転手たるの彼は、朗らかな声で説明を続ける。
「印刷会社から直接回収された、全部で10冊。やぶった所までは良かったらしいですが、溶かしたり、燃やしたりしたら祟りが起きたそうです。まるで狐が踊るように、火が跳ねて。消火もままならず。つくれるんですよ、魔導書。今の時代なら量産もできる。恐ろしいです」
「置き土産だったわけかい、その魔導書とやらが。でもどうして彼女はそんなものを?」
「本を処分して欲しくなかったからです。だから、本として成さなくなった時に祟りが起きるようにした」

 討代はハンドルをきった。あわせてクラクションが鳴るが、それは後方でごたついている人のやりとりだったので千景は安堵の息をつく。自分たちに向けたものではない。もめている運転手たちは狐の面を付けていたので、そりゃあそんなものを付けていればと千景は続いて大きなため息をつく。霊柩車から降りた人たちが後続の車を囲っていくが、討代は気にせず車を走らせる。
「そんな人の墓参りに行くのかい、僕たちは」
 車通りの多い街中。街路樹は黄色に染まっていて、立ち並ぶ電信柱にポスターが貼られている。ポスターが指し示す矢印の先に討代は向かっていた。千景は車から降りてしまおうかとぼんやり考えたが、シートベルトに手をかけた時にタイミングよく声をかけられる。
「ええ、もう着きますよ」
 駐車場の先、そこにあるのは霊園ではなく美術館だ。
「……ハ」
 狭い車内に、吐き捨てるような呼吸の音が響く。先に討代がシートベルトを外して降りた。彼は黒のコートを羽織る。それは喪服のようにも思えた。
 自分も黒い上着を持ってくれば良かったなと千景は己の羽織を見下ろす。抹茶色に似たそれは確か、”彼女”が「素敵な色合いですね」と褒めてくれたので、許してくれるだろう。その時”彼女”は笑っていたと記憶しているが、笑ったという事実だけが残っていて表情はとうに霞がかっている。

「こっちです」
「チケットは買わなくていいのかい」
「用があるのはバックヤードなので」
 鉄の扉が開かれる。内部にスタッフはいない。話は通してありますと討代は告げた。ドア裏には『秋の企画展・稀覯本フェア』と書かれたポスターが貼られていた。だがその絵はウィトルウィウス的人体図であり、レオナルド・ダ・ヴィンチがどうしてと千景は頭を抱える。立ち止まる千景の腕を討代は引いて廊下を歩く。討代の革靴の音、続いて千景の下駄の音が人の居ないバックヤードに反響する。勝手知ったる道のように討代という男は先を行く。世界がゆっくり遠ざかっていく。

「この先です、彼女が居るのは」
 千景は墓参りに来たはずなのだ。討代という男と、ふたりで。何度か店に来たことのある、たったそれだけの関係である”彼女”の墓参りに。今なら引き返せると一瞬思ったが、千景の腕を引く討代の力は強い。彼女の邪悪に加担した者を逃さまいとする決意が現れていた。

「”彼女”と」
 討代は廊下の最奥で立ち止まり、振り返った。ようやくまともに視線が絡んだように思う彼の目は、困惑で揺れていた。
「――最期に会ったのはひと月ほど前です。本が届くからぜひ受け取って欲しいと彼女は言いました。うちの本棚を指出して、あそこに置いて欲しいのだと。貴方が売ってくれた黒壇の本棚です。ちょうどいいサイズだったので、ベッド脇に置いていたんです。彼女は『私の本』を置くならあそこがいいと指定しました」
 息を吸って。
「本のつくりかたは知っていますか?」
 吐いて。
「……まずは中身を書くだろう。それからコンクールに応募する。賞がもらえれば、どこそこの会社から『うちから売りませんか』と声がかかる。そうして本ができる」
 喉はすっかり渇いていた。途中でコンビニを見かけたら水を買おうと心のどこかで思っていたのだが、討代とのドライブ中にコンビニは見かけなかった。
「分かっているでしょう、千景さん。本をつくるだけなら『中身』なんてさほど重要ではない。なんせ個人で本をつくれる時代です」
「討代くん。僕はストレートに物を言わない奴は気にくわないんだ。試されるとか、察してとか、そういったものをはまったく好まない」
 千景なりの抵抗の証だった。しかし足は動かない。ここから引き返そうとはしない。見届けなくてはいけないと心の底では分かっていた。
「ならばとりわけ”彼女”とお付き合いするには難しいでしょうね。あの人は、察して欲しいと、そういった言葉ばかりで」
「”彼女”だけではなく、世のあらゆる女性とのお付き合いは長く続かないんだよ僕は。それで、本のつくり方が、どうだって云うんだね?」

「彼女は本になったんです」

「はあ」
 呼吸と疑問符がないまぜになった呼気が、千景の開いた口から抜けていく。
「人皮装丁本をご存知ですか?」
 討代は畳み掛けてくる。
「にんぴそうていほん? 知らないと言えば、君は僕を嗤うかな……」
「自分に他者を試す趣味はありません、ご存知かどうかを聞いただけです。にんぴは、そうですね、漢字で書けば『人の皮』です」
「つまり、彼女は本に、本の材料になってしまったのかい?」
「全部で11冊の、祟るだけに存在する魔術書。うち10冊は世に出る直前に回収され、記述通り災害を起こしました。そしてただ1冊、別送で自分の手元に直接送られた本が残っています」
「そんなもの簡単につくられてたまるものか」
「つくられたんです。祟りの力の出処は千景さんが売った骨董品に備えてあったものですよ。”神様”がいたんだとか。悪霊と言った方が馴染み深いのかもしれません。”彼女”とソレの間で、何かの利害が一致したのだと」
 現実が遠い。クラクラする。千景は目元を抑えた。だが思い返せばここに来るまでの道のり、ずっと、少しずつずれていた気がする。
「討代くん、気は確かか。ずいぶんと詳しいじゃないか」
「確かなんですよ、悲しいことに。詳しいのは、彼女の本にすべて書いてあったからです」
 討代は扉に手をかけて少しだけ開いた。暗い廊下に人工的な光が差し込む。
「まえがきが経緯と目的」
 光は細い。強く輝き、白の線を床に描く。
「第一章、とある男への募らせた彼女の想いポエム。第二章、カルト教団とそこで崇められていた神の歴史きろく
 討代は扉を完全には開こうとしない。
「第三章、その本を損なうことにより起きる災いの内容、つまり彼女による脅迫文書。ちょうどあなたの知人が出した本のように、特別に趣向をこらしたつくりかた。表紙は彼女の皮、本分用紙はただの紙、栞紐スピンは彼女の髪の束」
 一息にそう言うと、討代は自らの髪をかき乱した。千景はとうとう同情の念を彼に向ける。
「災いやら祟りやらを起こさないために、『彼女』を愛さなければならないのかい、討代くんBibliophilia
「千景さん、自分は確かに愛書家ビブリオフィリアですが、愛する本は選ぶんですよ」
 討代の声は平坦だ。興奮している様子もなく、気落ちした様子もなく。
「……少なくともあの本は、自分の好みではありませんでした。だから愛せない。手元には置けない。だから貴方に、いいお話があるんです」
 討代はとうとうバックヤードの扉を開く。奥にひとつの絵が掛けられていた。

「本をつかった絵画さくひんです」
 ページはバラされ、ちぎられ、再構成され、ひとつの絵に変わっていた。図案は笑う女性を模したもの。モナリザの面影がある。その有名で強烈なるイメージのせいで、文字までは意識が向かず、さらには認識が塗りつぶされていく。
 もとより深い仲でもない。千景にとっては、店を数度訪れた、ただの買い物客に過ぎない存在。”彼女”が微笑みを浮かべて立っている。きっと彼女はあんな顔で死んだ。そう深く思い込む。
「驚いた、こういった形で魔術書の力を奪えるものなのか」
「『ある女の呪いが込められた本を材料にした絵』という説明がある限り、魔術書は損なわれたことにはならないです。だってこの絵は、本なのですから。そして”彼女”の……」
 討代は手で自分の口を覆った。気分が悪そうだ。吐く手前の顔色をしている。
「情念は誰にも読まれないつたわらない

 千景はどうして自分がここに呼ばれたのか、理解した。
「こいつは墓参りと、商談を兼ねていたわけかい」
 歯を見せて嗤うと、討代はゆっくりと頷いた。
「いいだろう、責任を取らせてもらおうじゃあないか」

 
……。
 

 彼女は本になりたかった。
 討代ビブリオフィリアに愛されたかった。
 だから彼女は本になった。
 手放せなくなる呪いをかけて。
 そこまでしても、彼女は彼に愛されなかった。

「大丈夫、きっと貴方を愛する人が、いずれこの店を訪れるだろうよ」

 骨董とラベリングするにはまだ生まれて日の浅いこの作品も、年月が経てば勝手にそれに相応しくなる。彼女が芸術品として誰かに愛されるようになるまで、果たしてどれほどかかるのか。曰く付きの物語と共に”彼女”は店の奥に鎮座する。

「あそこに飾ってあるものは、ある『本』で出来た奇妙な絵画。悲恋に終わった女性の曰くがついている」
「布で隠してあるのは、怖い絵だから?」
「いや、美しい絵だと思うよ。ただその男が店に来ている間、ああやって隠しているんだよ」
「そうなんだ。そんな作品も置いてあるんですね。ねえ、討代さん」
「……そうですね」

 
 了