旅行代理店の中に『錯真徒汐』の姿を見かけた立命逝貴は、血相を変えて自動扉の隙間から店内に滑り込んだ。
「うえ!? ゆたか!?」
 思わぬ遭遇に、雷に打たれたような顔を見せるトシオ。思わず手に持っていた山中旅行のパンフレットを落としてしまう。

 それから3分後。

 ふたりは駅ナカのカフェに移動していた。トシオはブラックコーヒーを、逝貴はロイヤルミルクティーとパンケーキを目の前に置いて、互いに無言のまま向かい合っている。トシオの手元でくしゃりとひしゃげているパンフレットは遊園地宿泊プランに変えられていた。逝貴が選んだものだ。

「……”人魚の絵”は完成したか?」
 先に口を開いたのは逝貴の方だった。
「うん。おかげさまで。あんま評判はよくないけど」
「は、いつもと違う作風だからか? あれがダメとは、美術館の連中はやっぱ感性が違うな……当ててやろうか。”鍛冶屋”か?」
「ハズレ。あのおじちゃんはいつも褒めてくれんの。酷評してくれたのは”面作家”と”館長”」
「館長? すげぇな。見込みなしってことじゃねぇか」
 逝貴は嬉しそうに笑みをこぼす。彼にとって、トシオの作品が評価されないことは喜ばしいことでもあった。
「うん。『これは、展示しない方がいいわね』だって。もともと外に出す気がない作品だったけどなぁ、ああ言い切られると凹むよねぇ」

 トシオはコーヒーの水面をじっと睨みつけながら、穏やかにつぶやく。黒い世界に彼の目が反射する。深淵を覗くとき……と呟き始めたので、ゆたかは黙って角砂糖の入ったビンをトントンと叩いた。トシオは、使わないと言いたげに首を振る。

「また”旅行”か?」
「作品できたし、涼しくなってきたからさ」
「出歩く暇あるならお前に頼みがあんだよ」
「ん? ゆたかの頼みなら、なんでも聞いちゃうよ」
 トシオの軽口に逝貴はピクリと指先を反応させた。なんでもは言い過ぎたかも、とトシオは口を片手で覆う。

「錯真、俺の代理でいとこの世話をしてくれ」
「は?」

……。

 そして今、トシオは逝貴の姪っ子と共に水族館にいる。世話をしてくれと言われたからどんなちびっこを押し付けられるのかと思いきや、待ち合わせ場所に現れたのは女子高校生だった。

「あらま、デートのお誘いだったのこれ」
「セクハラです!」
「わ、ごめん。ジョークってことでひとつヨロシク」
 10以上も年が違うものねえ、とトシオは笑う。その笑顔を見て、女の子は少し頬を赤くした。キャスケット帽を取って頭を下げる。
「首藤ユエです」
「俺は錯真トシオ。気軽にトッシーって呼んでくれ。今日は一日よろしくね」

 なんでもユエはかねてからこの水族館に憧れていて、近場に住む逝貴に付き添いを頼んでいたらしい。しかしいざ予定していた日に逝貴に仕事が入り、お流れになりかけていたそうだ。
『水族館じゃ死ねないだろ』
 なるほど、トシオの放浪を防ぐいい口実でもある。当の逝貴は今ごろ冠婚葬祭の専門展示会スタッフとして会場を駆け回っている頃だろう。

「ここのペンギンが見たかったんです」
「あー、有名だもんねぇ」
 十時市の隣にある街に出来たこの水族館は、ペンギンと、アシカショーと、クジラの標本がメイン展示だ。トシオは標本に興味が惹かれたがユエはそうでもないらしく、グイグイと上着の裾を引っ張られ移動させられる。
 水族館は千切れそうなものないしな、なんてトシオはつまらない気持ちで水槽を眺めていた。ちょうど豪華客船の船上水族館なんて施設を見た身としては、地方の小さな水族館など今さら興味が惹かれることはない。

 ……そうトシオは思っていたが、存外「ふれあいコーナー」でテンションが上がってしまった。いい年した大人と見目麗しい女子高生が、ナマコをつついてキャアキャア騒ぐ様子を見て、逝貴だったらどんな顔をしてため息をつくだろうか……。

 赤ちゃんペンギンコーナーや、光る魚コーナー、チンアナゴの森といった所を回るうちに、ユエとトシオはすっかり打ち解けた。
「ゆたか兄さんとはこういう所に遊びに来たりするんですか?」
「えーまさか。学生じゃあるまいし」
「だってさっき恋人いないって。あ、トッシーさんの好きなタイプは?」
「かわいげのある子」
「ふーん。かわいげのある子とは普段どういうとこに遊びに行ったりするんですか?」
「きみねー、さっきから恋話(コイバナ)ばっかりだね」
「あんまり本業のことは聞いてやるなってゆたか兄さんから釘刺されてるんで……」
「あいつそんなことを!」
「トッシーさんってマフィアだったりするんですか?」
「本業って、そんなヤバいもんじゃないよ!」

 モノホンの芸術家だよ、と言ってもふーんで流されてしまったし、名刺を渡そうにも、あいにく切らしていた。前日、酒に酔って仲間と「名刺手裏剣!」とか言って遊んだせいで”全滅”したのだろう。芸術家ならおえかきうまいんですよねと詰め寄られるも、あいにくトシオはイラストレーターではない。

「なんだ、つまんない」
「手厳しい。ゆたかに似てるね」
「似てるなんて言うのトッシーさんが初めてですよ。私あそこまで暗い人じゃないです」
「ほんと手厳しい……」

 現役女子高生のバイタリティにあらゆる意味で振り回されながら、トシオは広い館内を引きずり回される。館内にあるパンフレットの収集は終わっていたので、彼はもう追従するだけの存在になっていた。

「あ、次あそこいきましょう」
 ユエが指差したのは、狭い入り口。薄暗く細い廊下の奥に点々とした光が見える。しんかいぎょ、と看板が掲げられていた。
「深海魚って見た目グロいですよねー」
 そう言って進もうとしたユエの華奢な腕をトシオが掴んだ。不意に服越しに伝わる温度に、ユエの心臓が大きく跳ねる。
「えっと、トッシーさん?」
「アシカショーそろそろ始まるって」

 ユエをまっすぐ見つめる双眸、そこに有るのは確かな圧力。しかし口元には穏やかな笑み。そして「ねぇ?」ともう一度開く口から覗く歯と、舌。射竦められたような感覚に陥り、ユエは何も答えられなかった。トシオの目を見ることができず、彼の口元に視線を集中させる。すると体を引き寄せられて、ぐるっと向きを変えさせられると、両肩に手を乗せられた。大きい手がユエのなで肩を覆う。

「俺アシカ見たいな~~~~!」
 そのまま背を押され誘導される。
「えっ、えっ!?」
「ほーらぜんそくぜんしーん」
 茶化され歩くユエを見て、近くの親子連れがクスクスと笑う。仲のいいきょうだいだと思われてるんだろうな、とユエは思ったものの口には出さなかった。

 結局『しんかいぎょ』のコーナーには入らず、ふたりの平和的な水族館デートは幕を閉じる。

……。

 後日。

「なんでお前とも水族館来ないといけないの!?」
「ユエのゴリ押しプレゼンが魅力的でな……あと前ので”割引券”もらってんだろ?」
「こわいよねぇこのシステム! 某レストランのドリンクバー割引券みたい!」
「例えがピンポイントでわからん」

 学生でもないのに野郎ふたりで水族館て、とトシオはため息をつく。実のところまた旅行代理店にいるところを逝貴に見つかったので、それの罰のようなものだろう。もっとも本当にユエのお土産話で逝貴も水族館に興味を持ったのかもしれないが。
「深海魚みるの好きなんだよ」
「え、初めて知ったよそんなの。もっとアピールしてくれよ」
「普段から言いふらすほどフリークでもねぇ」
 そう言いながら逝貴は、先週トシオが躊躇したコーナーに近づいていく。『深海魚』と書かれた看板を見て、トシオは一瞬とまどい、逝貴の腕を掴んで止めた。

「なんだよ」
 逝貴が不機嫌そうに振り返る。トシオは暗がりと逝貴の目を交互に見て、やがて腕から手を離した。
「……いや、なんか今日は、平気っぽいな」
「なんだ? 深海魚きらいか?」
「いやぁ、ユエちゃんと此処は相性悪いんだろうなきっと」

 妙な勘が鋭くなってしまったなぁ、と、トシオは髪をガシガシとかき乱す。逝貴は、何のことか分からないと言いたげな顔を返した。
「ほら、中に入るぞ」
 ウキウキとした声色の逝貴はなんだかレアだなとトシオはぼんやり考える。
「怖いならさっきみたいに腕を掴んでもいいからな?」
「無駄に彼氏力発揮するのやめなさいよ」

 
 
(異変に巻きこまれない話、了)