年末年始は神気が高まるものだ、と博物館の誰かが言ったことをイチトはまったく気にしなかった。
 そういうものだろうと考えていたから。

 ……。

 寒い寒いと楽しそうに呟きリビングのコタツに身を埋めるフツカを見て「実家には帰らないのか」とイチトが尋ねる。
「帰れっていうの!?」
 悲痛混じりの声が案外大きな声量だったのでイチトは目を見開いた。彼の指から落ちたマシュマロがポチャンと音を立ててココアのマグカップに沈んでしまう。

「帰ってほしいという俺の希望ではなくてだな」
 落ちたマシュマロは意に介さず、イチトはココアを一口飲んだ。
「お前が帰らなくていいなら良いんだ」
「兄さんは帰らないよね?」
「帰れるもんか」
「じゃあふたりで年越しだねぇ」
 フツカはコタツの中に潜り込むと、熱源をよけて身を捩り、反対側に座っていたイチトの腰の脇に顔を出した。呆れたような茶色の瞳がじろりとフツカを見下ろすが「どけ」なんてことは言われない。

「年末年始は特別なんだってねぇ、お婆ちゃんがよく言っていたもの」
「俺たちがやれることは限られているぞ……特別なことは何もない。年越し蕎麦を買って食べる、初詣をする、提示できるプランはそれくらいだ」
「普段はやらないことだから十分に特別じゃないか。それとも兄さんは、どんなことが『特別』だと思っていたの?」
「……餅つきとか?」
「ふふ、それは確かに大掛かりでぼくらふたりではできないね。あ、でも定番のものがあるじゃない? お、から始まる――」
「おせちが食べたいのか? 最低限のおかずでいいなら間に合わせるが、それっぽい器がうちには無いぞ」
「ちがーう! 食べられるなら食べたいけど! それじゃないやつ!」
「おもちは食べるぞ。角餅と丸餅とどっち派だ?」
「丸餅派だけど! 違う! 兄さんわざとはずしてない?」
「ああ、大掃除か……」
「えーん兄さんの世間知らず! 『お年玉』に決まってるじゃないか!」

 フツカにポカポカと太ももを叩かれるままに、イチトは驚愕の眼差しでフツカを見下ろしていた。
「おとしだまだと……?」
「知らないなら教えてあげるよ。年少者にお小遣いをあげる制度なんだ」
「フツカに物知らずを指摘される日が来るとは思っていなかったが……」
「結構いろいろと教えてあげてるつもりなんだけどなぁ」
「お前は俺にお年玉を要求できる歳だと思っているのか!?」
「……うそ!? ぼくにお年玉をあげたがらない年上は兄さんがはじめてだ」
「フツカまさかお前は大学の先輩方にもお年玉を要求していたりしないだろうな!?」
「大学の人と金のやり取りはやめなさいっていう兄さんの言いつけをぼくが破るわけないじゃない!」
「その言いつけがないとどうなっていたんだお前の金銭感覚は!」

 コタツでぬくもりながら互いの手と手で雑なじゃれあいをしていたふたりだが、体温が上がったのかこのやりとりを面倒に思ったのか、イチトが席を立つ。フツカは彼のズボンの裾に指を引っ掛ける悪戯を仕掛けたがノールックでかわされた。

「言っておくが俺はお前の保護者として振る舞うつもりはない」
「つれないなぁ兄さんは」
「だが同居する者として最低限の日常、行事、そして風紀は叩き込んでやるつもりだ」
「痛いことはいやだよ」
「するものか。俺は今から買い出しに行ってくるから昼飯はひとりでとってくれ」
「同居する者としてのお話とその宣言は関係があるのかな?」
「あるとも。俺はおせち料理の材料を買わねばならんのだからな」
「最低限の行事ってことかぁ……でもおせちはお店でも売ってるんだよね? それを買えば良いのに」
「予約をしていない。だが幸いにして家庭科で作り方を習っているからな」
「ドゥーイットユアセルフってやつだね。ぼくも買い出しついてくよ」
「いや。他にも買うものが多いし、それらを探す時間もある。お前を連れて行くと『まだ?』って煩いから別行動に限るな」
「ひっどいなぁ!」

 フツカの憤慨をスルーして、イチトはさっさとコートに身を包むと外へ出てしまった。一瞬だけ入り込む外の冷気がフツカのおでこを刺し、やがて名残ものこさず消えていく。紅茶に落とした角砂糖みたいだな、とフツカは冬の気配を思い遣った。

「……さて!」
 イチトがいない、暇な12月29日。フツカはスマートフォンを手に取ると、年末年始の『特別なこと』を調べ始めた。
 実家に居た頃にいろいろとやった覚えはあるのだが、イチトと共にやるとなるとピンとくるものがないのだ。鄙びた田舎の思い出をどことなく後ろめたく思っていることもある。

「どれどれ、定番は年賀状を出す、福袋を買う、初日の出を見る、それに姫初め……?」
 充電が疎かなフツカのスマートフォンのバッテリーは残り1パーセント。
「新年を迎えてから最初に釜で炊いた米を食べること……へぇ、そんな風習があるんだ。もうひとつの意味は、アッ」
 調べ物の途中でフツカのスマートフォンは力尽きてしまった。

「そうだ、初詣をやりたいって兄さんは言ってたね。初詣が出来そうな神社を調べてみよう。こういうのは駅前に案内があるはずだからね」

 スマートフォンはリビングの充電器に繋ぎ、フツカは先輩に譲ってもらったダウンジャケットに身を包む。新しいの買うからと押し付けられた物なので、フツカが自分で選ばないくすんだオレンジ色。
「兄さんだってモルグ市の新参者だもの。ぼくがスマートに初詣をエスコートできたら、兄さんも見直してくれるだろうね!」
 お気に入りのブーツを履いて外に繰り出す。雪も降らず道も凍らない冬のモルグ市は、年の瀬で人の行き来も少なく、命の終わりを感じさせる雰囲気であった。

 
……。
 

 初詣の思い出はあまり多くない。外を出歩くのが苦手な一家だったように思う。
 あるいは、神様に後ろめたい気持ちがあるのかもしれない、なんてぼんやりとフツカは祖父母の背中を眺めていた。
 そういう時、ふたりがフツカを見る目もなんとなく申し訳なさそうなものだったのだ。何を悲しく思っているの、とわざわざ声に出して尋ねてみても、悲しみの源が分からないと言いたげに祖父母は困った顔を浮かべたものだ。

 さて、町に繰り出したフツカは歳末売り出し中の駅前商店街を早歩きで進んだ。のろのろ歩くと客寄せに捕まるどころか、お土産をいろいろと渡されてしまうからだ。今の時期だと蜜柑とか。

 しかしフツカの目論みは失敗して、やっぱり誰かに捕まってしまった。急ぐフツカの右腕を掬い上げた馴れ馴れしい人物は「先輩ちょうどよかった付き合ってくださいよ」なんて言うものだから。
「ぼくは誰の先輩でもありません!」
「あれ、なんでフツカちゃん!?」

 腕を掴んでいるのはサークルの同輩だ。フツカと知らず呼び止めたようで目を丸くしている。驚きの眼差しは、やがて人懐っこく弧を描いた。
「この上着、今季の先輩のトレードマークだったのに」
「貰い受けたんだよ、ぼくが。用事があるのが先輩なら、もう行ってもいいかな?」
「用事があるのか?」
「もちろん! 駅前の案内板を見ないと」
「直近の要件ばかり言うのがフツカちゃんだよな。最終目標は?」
「モルグ市で初詣ができそうな場所を見つけようと思うんだ。どの街にもあるじゃない神社って。できればおみくじが引けるところがいいなぁ」
「モルグ市で……初詣……」

 相手は頭を抱えてしまった。何か不都合なことを聞いてしまったかとフツカは不安に思う。
「ぼくは何か悪いことを聞いたかな?」
「いや、残念ながらモルグ市で一番大きかった神社は……潰れちゃったんだ」
「え、つぶれちゃったの?」
「ああ」

 フツカが永劫知ることはないことなのだが、この時に相手が言い淀んだのは「魔神によって神社が潰された」からだ。
 フツカの『魔神嫌い』は同じ大学の者なら誰でも知っている……誰でもだ。
 だから、魔神というキーワードは伏せた。誰だって更級フツカに嫌われたくはないのだから。

「じゃあ初詣はできないんだね」
「いや、その……モルグ市から近いところに行けばいいんじゃないか?」
「そうは簡単に言うけれど、知らない場所に遠出は気のりしないなぁ」
「ギリギリモルグ市的な場所なら宛てがあるから紹介しようか?」
「ギリギリなの?」
「うん……町の境的な」
「それならぼくでもいけるかな? 場所を教えてもらえるとうれしいな」

 フツカはスマートフォンを取り出そうとして、その手を止めた。今は家で充電中だ。しまった、地図アプリを開こうと思ったのに。
 そうやってバツが悪く笑う前に……相手がフツカの手首を掴んだ。白い肌に指先がやんわりと食い込む。

「案内してやるよ!」
「ええ、いいよわざわざ」
「気にすんなって、どうせ暇だし」
「『先輩』に付き合ってほしい用事があったんじゃないの?」
 尋ねたフツカはしかし、相手の次の言動が読めていた。
「どうでもいい用事だよ。それならフツカちゃんを案内した方が有意義だ!」

 誰しも、フツカを見ると親切にしたがるのだ。優先度が変わってしまう。
 それは有り難くもあったし、鈍感なフツカでも「申し訳ないな」と思う時もあった。今回に至っては後者だった。
 そしてその親切を跳ね除けることができないのもまたフツカであった。

「歩いて遠い?」
「バスを使うと早いけど、フツカちゃんは歩くの好きって言ってなかったっけ」
「そうだよ。足の裏で地面を感じるのが好きなんだ」
「裸足になってもいいよ」
「寒いじゃない」
 息は白くならない。今年は暖冬だと相手は言った。フツカは気温に興味はなく生返事だ。

「いいじゃん、脱ぎなよ。ちょっと違うことするって、青春みたいでよくないか?」
「ぼくは身体を傷つけたいわけじゃあないんだよ」
「保守的だ。芸術家の端くれが」
「裸足になるだけでいい絵が描けたらいいのにね」

 商店街を引き返し、スーパーにつながる道をゆき、郵便局を左折した。ここから先は少し田舎のようで、田んぼの跡地となにかの畑とたくさんの電信柱。顔を上げれば山が見える。
「人通りがない」
「神域ってのはそんなものさ」
 途中で自動販売機を見かけて、フツカはホットレモンを、同輩は無糖コーヒーを購入する。
 フツカはイチトの言いつけをよく守り、自動販売機の住所表示ステッカーを確認する。何かがあっても、これを頼りに居場所を伝えろというイチトの命令口調がフツカの脳を心地よく揺さぶった。

「あの山に神社が?」
「てっぺんまでは行かないさ。麓の方」
「それなら」

 低い山だ。モルグ市はそういう山に囲まれた土地だった。鬱蒼とした木々の存在感が強く、それに気づいたフツカは二の足を踏んだ。
「おみくじはないかもね」
 相手は小さく笑うと、さりげなくフツカの手をとって先導する。この世界の誰もがフツカに優しくしてくれるし、フツカはそれを丁寧に受け取って生きてきた。自然とふたりは手を繋ぐ形になる。それはなにも、奇妙なことではなかった。

「何時間もかかるかと思った」
「大袈裟だな」
「ぼくはモルグ市のことをよく知らないから」
「住んでる奴の大半はそんなものじゃないか」
「自分の住む場所を知らないなんて」
「知らなくても生きていけるって。フツカちゃん、小学校の時の郷土授業を熱心に受けてたタイプかな」
「いや、それはどうかな」

 たどり着いた先には鳥居なんてなかった。トタン屋根の小さな小屋、扉は壊されて中には白い像と水の貼った器が見える。水の中には苔むした硬貨が沈んでいて、そのどれもがフツカの知らないお金だった……少なくとも日本円ではない。
 フツカは困惑した顔を浮かべて同輩を仰ぎ見た。外は夕暮れで、相手の顔は逆光でよく見えない。それなのに眼はキラキラと輝いているように見えた。

「ああ、似合うなフツカちゃんは」
「似合うの? 一体、何が」
「この場所」
「神社でもない、ここ?」
「神様の居場所」
「やめて、モルグ市に神様はいないんでしょう」

 ただならぬ空気を感じ取り、愚鈍の部類に含まれるフツカでもさすがに相手の腕を振り払う。
 フツカが、あのフツカが、そんな乱暴なことをするなんて!
 相手は裏切られたような顔を見せ、そして小さく鳴いた。
 みながフツカを神聖視する。
 今ふたりは何かの神の社にいて、今のフツカは一層。

「ギリギリモルグ市だよ」
「異界の入口ってこと?」

 フツカは相手の返答も聞かずに一目散に駆け出した。同輩は追ってこない。休みが明けたらどんな顔をして彼に会えばいいのか、そればかりを心配してフツカは山を離れて野を駆ける。どう考えても年末年始を待ち望む人の行動と乖離している今の状況にフツカは、おもしろくなって、笑い声をあげた。今なら裸足になってもいい気分だった。自分の身が可愛いのでそんな愚かなことはしなかった。

「兄さん迎えに来て」
 モルグ市にはまだ旧い場所があり、そこには公衆電話が残っている。フツカは遥か昔に誰かに言われた「名札に十円玉を入れておきなさい、それで保護者に電話をするの」という忠告を覚えている。名札を身につけたことはないけれど、いつもズボンのポケットの何処かには幾つかの硬貨を忍ばせていた。これにより、いつでも電話ができるし賽銭だって投げられる。

『どこにいるんだ?』
 事情を聞かず場所だけを問うイチトの平坦な声に、フツカはまた嬉しそうな声をあげると、喜んで自動販売機で知った住所を教えた。そこから少し先の公衆電話から貴方に伝えていると、併せて。

「ずいぶんな散歩だな」
 わざわざレンタカーを借りて迎えに来たらしいイチトは怒っているのかそうじゃないのか分かりにくい声で告げる。
「ああ、話に夢中で気づかなかったんだ。こんなに歩いていたなんて」
「話に? 誰かと来たのか。別れたのか?」
「うん。サークルの友達と会ったけど、その、はは」

 フツカは『異界』の言葉で自らの舌を震わせることを躊躇した。きっとイチトは飛び出して対処するだろう。それがフツカが朧げに理解しているイチトの役目だ。
 言葉を濁すフツカにイチトは顔を険しくする。
「襲われたとか」
「まさか。財布の中身はピカピカしたコインだけだって、相手は分かっているもの。カードもお札もあんまり持ち歩かないようにしているんだよ」
「金の心配だけじゃない。身体とか。男だからと油断をするな、ただでさえ普段から女相手に押し負けているお前だぞ」
「兄さんが怒る必要はどこにもないんだよ」

 フツカを招き入れようとして、フツカにだけ開かれて、しかしフツカは拒絶した。それで終わった話なのだ。その話の続きを知りたくないし、イチトを巻き込みたくない。

「兄さん、初詣は諦めてくれるかな」
「急にどうした」
「モルグ市に神社はないんだって」
「存じているが」
「本当にないんだよ」
「疑っていないぞ」
「ただのひとつもだ」
「何を見た? フツカ」

 赤信号で車が止まる。焼け野原に似たイチトの茶色の瞳がフツカを品定めするように射抜く。フツカをこんな目で見る者は、信じられないことだがイチト以外にいないのだ。

「ああでもぼくに任せて」
「フツカ」
「ぼくがおみくじを用意する! まだ新年まで時間があるじゃない。ぼくだってね、美大生なんだよ」
「……おせち作りの手伝いはしてくれないのか?」
「ぼくおせちの作り方わからないもの」
「そんなわけがない、いや、フツカはひょっとして家庭科を真面目に受けなかったな?」
「向き不向きがあるじゃない! とにかく楽しみにしていて、ぼくが」

 フツカはすんでのところで口を手で塞ぎ、そこから先を言わなくて済んだ。
 ぼくが初詣に相応しい場所になるよなんて口を滑らせてしまったら。きっとあの白い像が、器が、山の木々が、声をかけてくれた知り合いが、新たなる信仰の誕生を歓んでくれるだろうから。

「あ、うまく出来たらお年玉をくれる?」
「話が飛んだ気がしたが」
「やだなぁいつものことじゃないか」
「わかっているんだな、わかってやっているんだなお前……」

 車でも家まで結構な時間がかかるんだな、とフツカは気づいてしまったがやはり何も言わないように気をつけた。

 
……。
 

 年は正しく暮れて、滞りなく明けて。

 奇妙な柄が施されたおみくじを見た時のイチトの顔を思い出しながら、フツカはサークルに顔を出した。冬休みは明けており、講義もその他の活動もゆっくりと動き出す時分。

「先輩~聞いてくださいよ」
 声をかけられた。自分はフツカであり誰の先輩でもない。声をかけた相手もまた、驚いているようだった。
「……ってあれ、フツカちゃんじゃん。お揃いのジャケット?」
「何を言っているの。これは譲ってもらったってぼくは教えたよ」

 相手はキョトンとした顔だ。フツカは気にしなかった。彼にフツカを騙して誘い出したことを怒ろうと思っていたのだが、くすんだオレンジ色のジャケットについて質問し続ける彼を相手にしているうちにすっかりその気も失せてしまった。

「ぼくは兄さんに見直してもらいたかっただけなんだよ」
 不貞腐れるフツカに、部屋にいた何人かが手を伸ばして頭を撫でていく。それで機嫌がなおるのだから、フツカの相手は簡単なことだ。

 信仰改まらず、やがてあのドアーも忘れられる。