帰ってきた兄には夏の匂いが絡みついていた。汗と火薬と煙草の煙と、あとは食べ物、……肉、ソース、なにかを焼いたもの、そういった類。

 あの日の自分は夏風邪をひいてしまい、茹だる感覚に喘いでいた。弟が生温い地獄を泳いでいる間、兄は友人と楽しく過ごしていたわけだ。汗で湿った黒いTシャツは恨めしかった。もちろん兄には何ひとつ非がない。自分の幼稚な八つ当たりに過ぎない。

 それなのに、布団に横たわる此方を覗き込み、額に手を当て「ごめんな」と言うものだから。笑って謝る長兄は輝かしい。

 帰ったら手洗いうがい、と告げる姉の声は平時より冷たく感じられた。それを怠ったから風邪を引いたのだと、きっと自分にも伝えていたのだろう。

 兄は姉の言葉に従って緩慢に立ち上がる。傍らに置いてあったビニール袋から、赤や緑の水ヨーヨーが転がり出るさまは鮮やかだった。視界の端を横切る赤と、それを追う兄の掌。今まで以上に兄の手が大きく見えて、彼を遠い存在に感じたのはこの時が初めてだったと思う。

 思わず泣きそうになった。恐れと、寂しさから。

 しかし「これおみやげ」と小さく笑い、熱持つ自分の額にさして冷たくもないそれを当てて。兄は簡単に俺の『恐れ』を『不満』に置き換えてしまった。水の気配はたしかに小さな慰めとなったが、この時の自分は「りんごあめのほうがよかった」と生意気にも思ったのだ。

 どうせ、あの体調では食べられもしなかっただろう。去年の夏祭りで初めて兄に食べさせてもらった、執着の理由はそれだけだ。

「はやくシャワー浴びちゃいなさい」
 母の声はいつでも柔らかい。兄もまた「はいはい」と軽く了承する。ペタペタと軽い音を立て裸足の兄は遠ざかる。

 家族で夏祭りに行くのは去年まで。自分の夏風邪をきっかけに、夏の皆はバラバラに解散した。
 水ヨーヨーを貰えることも十分特別な待遇だったと、果たして誰なら自分の頭を撫でて諭してくれただろうか。